硫黄地獄

2010年09月09日

ラノベの定義

今回はっスね、ちょい真面目に更新。
いつもみたいなちんこちんこブログじゃないんで、そのあたりご了承を。

今回の更新は、「ツイッターの“東浩紀のテストでカンニングしてやったZE☆”ってツイートを、恐らくは毎日のように自分の名前で検索をかけていたから発見してしまった東浩紀」が『ゲーム的リアリズムの誕生』で論じているラノベに関する部分に対する、イチャモンというかボクなりの考えだったりします。
こういうこと書くのって初めてだから、ぶっちゃけ恥ずかしいデス><

東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』でラノベに関して論じている部分を、ちょっと乱暴にまとめておきます。
ぶっちゃけ主観やボクなりの解釈も混じってるので、あんまり信用しないでくださいね。

「いわゆる文芸的な小説はドラマの結論から人物が規定され、ラノベ的な小説はキャラクターの性質がドラマより優先される。」
超々乱暴ではあるっスけど、これが根幹かなと。
つまり、ラノベはストーリーを伝える媒体じゃなくてキャラクターを伝える媒体だってことデスね。

そんでもって、キャラクターが効率よく読者へと伝わるのは、作者と読者との間に「キャラクターのデータベース」が存在しているからだと東浩紀は主張しています。
この部分では、ハルヒが引用されています。
長門の登場シーンで「いわゆる神秘的な無表情系」だとキョンに言わせることで、読者は「あー、おkおk。どんなキャラなのか大体把握したわ」と分かってしまえる。
これが作者と読者との「データベースの共有」ってことデス。

そんなワケで、ストーリー由来の人物ではなくデータベース由来のキャラクターであるワケだから、別のストーリーに放り込まれても、しっかり活躍できちゃうワケです。
いわゆるスピンアウトってヤツですね。
『キノの旅』と『学園キノ』、『とある魔術の禁書目録』と『とある科学の電磁砲』。
この辺りなんかは、正にそのものって感じデスね。
もっと言えば、ハルヒなんかは『涼宮ハルヒの〜』という1つのシリーズの中でSFからミステリー、文芸部に野球部、生徒会との絡みまでやっちゃってるワケです。

と、そんなワケでラノベとは「キャラクター小説」だってのが、東浩紀の新城カズマや大塚英志を引用した上での結論って感じデス。
東浩紀は、これをベースにして色んな議論を進めていってるワケです。

ワケなんデスが、そのベースの部分であるところの「ラノベの定義」に関して、色々とゴニョゴニョ言いたいってのが今回の更新なワケです。
ようやく前置きが終わりましたw
これ、動画でやったら最悪のパターンですね。
さっさと本編に入れよっていうw

というワケで早速。
そもそも、「本当にキャラクター由来の小説ってのがラノベの定義となりうるん?」ってのが疑問なんスよね。

個人的な印象なんスけど、いわゆる文芸的な小説にだって「特徴的なキャラクターを配置して、そのキャラクターがどう動くかを描写した小説」ってのは、いくらでもあると思うんスよね。
逆に言えば、ラノベにだって「伝えたいメッセージ」を中心に据えた作品だってあるでしょうし。
どちらにウェイトを乗せているかの差は当然あるでしょうが、小説である以上は「メッセージ」と「キャラクター」ってのは、いわゆる車輪とシャフトの関係だと思うんスよね。

たとえば『罪と罰』。
ボクに言わせれば、完全なキャラクター小説なワケですよ。

主人公のラスコーリニコフは、孤独で傲慢な美青年。
貧乏が原因で、ちょいパラノイア気味。
イニシャルの「P.P.P」を上下引っくり返すと666。

完全に厨二デス。

ヒロインのソーニャは処女厨発狂な娼婦なワケですが、家族のために春をひさぐ信心深い高潔な少女デス。
ハルヒ風に表現をするなら、「いわゆるマグダラのマリア系ってヤツ」と表現できちゃうくらいステレオタイプなキャラクターだと言えませんか?

と、こんな感じで「データベース由来のキャラクターが活躍する『罪と罰』はライトノベルだったのデス(キリッ」と言えちゃうんじゃないでしょうか?
まぁ、個人的には『罪と罰』は本当にラノベ的だとは思いますけどねw
名前が覚えにくいってのが厳しいですけど、ストーリーは比較的単純明快で面白いデスし。
「ロシア文学とか重たそうでマジ勘弁www」的な偏見は捨てて読んでみるのをオススメします。

人名だって、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと比べれば覚えやすいと思いますしw

お次はデータベースについて。
東浩紀は、データベースをラノベに特有な事象だと言っていますが(これはボクの思い込みかもしれませんw)、キャラクターというか人物のデータベース化はごくごく普遍的な物なんじゃないかと、ボクは思うんデスよね。
東浩紀は、ライトノベルを読む際に違和感とか戸惑を感じるとしたらば、「このデータベースを共有していない」ということが原因だと言っています。

でも、それって普通のことだと思うんデスよ。
上で例に出した『罪と罰』だって、娼婦だけど信心深い人物=マグダラのマリアっていう「データベース」を共有できてないと、ソーニャの人物像を把握するのは難しいんじゃないでしょうか?

作者が意図することを把握するってのは、それなりに教養が必要だと思うんデスよね、やっぱり。
『源氏物語』を深く理解するには、平安貴族の風俗を知っている必要がある。
『アイヴァンホー』を深く理解するには、イングランド貴族の風俗や第三次十字軍の背景を知っている必要がある。
等々。

この「教養」ってのは「データベース」と言い換えれちゃうと思うんデス。
ボクらが、上に挙げたような古典を読むには「教養」が必要になっちゃってるワケですが、当時の読者達にとって常識だったんじゃないでしょうか?
少なくとも、本を読めるような知識人にとっては常識だったハズ。
つまり、それらは「データベース」として作者と読者との間に共有されてたんだと思います。

逆に言えば、何らかの「データベースの共有」無しには物語の伝達なんて不可能だとすら、ボクは思ってます。
だから、ラノベのデータベースを共有していない人がラノベを読むことが困難なように、純文学のデータベースを共有していないと純文学を読んでも完全にイミフってなっちゃうワケです。

ラノベのデータベース。
純文学のデータベース。
ミステリのデータベース。
SFのデータベース。
歴史小説のデータベース。

そういった物は絶対に存在すると思うんデスよね。
それは教養的な物もあれば、お約束的なジャーゴンまで様々っス。

ツイッター的にいえば、クラスタですねw
自分が所属しているクラスタの話題なら何となく理解できちゃうけど、他クラスタの話題ってなるとイマイチ理解しにくいって感じと思っていただけると理解しやすいんじゃないっスかね?

と、こんな感じが、ボクの「東浩紀のラノベに対する定義」へのイチャモンでした。

ちなみに、ボクにとって「本を読む」ってのは、自分の中のデータベースを増やす作業デス。
簡単に言えば、多くのクラスタに所属することが物事を多角的に捉える契機になるんじゃないかなって、ボクは考えながら本を読んでるって感じデス。
逆に、既に所属しているクラスタの本を読む時は、お決まり・お約束なぬるま湯に浸って、一安心って感じかなとw

しかし、今回の更新はマジで真面目一辺倒デスね。
真面目な方が恥ずかしいデス、マジでw

あー、ちんこちんこ。
次の更新はちゃんと、東浩紀が「オタク」から現在を語るように、「ちんこ的ワード」から現在を語れるようにしますん。
ではでは。
posted by 二酸化硫黄 at 21:31| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。ちんこだけじゃなんか足りないので。

まんこまんこ。
Posted by ヨンハリ at 2010年09月18日 09:05
>>ヨンハリさん
どうもどうも、まんこまんこ。
Posted by 硫黄 at 2010年09月22日 16:14
キャラクターのデータベースを文章の中で多くの読者にわかりやすく説明したものがラノベ
データベースを常識として省いているものがその他の小説
こんな感じじゃないでしょうか?
つまりラノベで違和感を感じる人は頭が残念ってことですね(^O^)

アクセス稼ぎにブログのアドレス貼らせて下さいm(_ _)m
Posted by ココ at 2010年11月08日 15:02
もう何ヶ月も前の記事だから何を書いたのかすら覚えてねーデスけど、多分おっしゃってることが矛盾してねっすか?
Posted by 硫黄 at 2011年04月16日 18:42
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